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紫外線不足の危険
1.光線療法(日光療法)の歴史
目次

1.光線療法(日光療法)の歴史

2.エネルギーを与える太陽とは

3.地球に辿り着く波長・太陽エネルギー

4.光線療法にからむ実験・統計

5.光と光受容体としての人間への影響

6.赤外線・可視光線・紫外線

7.光線療法の手引き
日光の恩恵と発見
大昔から中世ヨーロッパの時代を除いて、日光は健康のためになくてはならないものとされてきました。そうしたいろいろな時代の医者たちの日光との付き合い、とらえ方を紹介します。
日光がこれだけすべての時代に健康増進と関連づけられてきたのは、ほかならぬ実際の結果があったからだと思います。
現代においても、多くの地域で医学者がデータを取っていますが、例外なく、現実のデータでは日光は人間にとって健康を促し、病気を避ける重要な結論に達するものばかりです。
一方、日光がこわい、と唱える説はデータではなく憶測から発しているものであることに注意が必要です。
目先の情報をもとに自分の大切な体の処置方法を選択するのは得策ではありません。憶測の氾濫よりも実際の現実のデータのほうが確かではないかと考えます。
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B・C 
3000
古代ギリシャでは日光療法を行った記録が残されているが、一般の人も日光浴場で全裸になって、全身の日光浴を好んで行った。

ギリシャの太陽神信仰の中心地ヘリオポリスには名高い癒しの神殿があり、そこでは日光がスペクトル成分(色)に分けられ、個々の色が特定の治療に使われた。
欧米人は今でも健康のために日光浴を行なっている。

北欧などは地域的に紫外線の量が少ないので、努力して取り込まなければならないことからそういう習慣を作ったのでしょう。
B・C 
2000
B・C 2000頃の第5王朝時代、エジプト人は太陽神ラーを信仰し、王国をはじめ、盛んに日光浴・日光療法を行ったことが、遺跡から明らかになった。B・C 1350年頃の第18王朝アメノフィス4世(ツタンカーメン王の父)は、唯一神アトン(太陽の円盤の意)を信仰し、名をアクナトンと改めたが、王妃ネフェル・チチと日光浴を楽しんでいる彫刻板が発見されている。尚、エジプトでは王のことをファラオと呼ぶが、これは「太陽の子」の意味である。
B・C 
1400
インドでは日光の感受性を高める光感剤(コルタール)を塗って肌を太陽の光にさらし、白斑や感染の治療が行なわれていた。
B・C 
1360
エジプトの王様アメノフィース四世がその家族とともに日光浴をしていると思われる石板の彫刻が遺跡で発見された。
B・C 
525
ローマ帝国時代の医師・へロドット

紀元前525年ペルシャとエジプトの戦争研究の中で、室内生活を好み、外出時には頭巾をかぶる習性のあるペルシャ人はハゲが多く、頭蓋骨は石でたたくと、すぐに穴が開くのに対し、無帽で外出し、直射日光を受ける習性のあるエジプト人の頭蓋骨は硬くて丈夫だ、と記している。
日光を避けるペルシャ人はハゲが多く骨が弱い
B・C 
460
〜377
現代医学の祖とされている医聖ヒポクラテスは、同時に「日光療法の始祖」でもある。彼は日光療法を本格的に医療の場に取り入れ、意欲的にその効果について研究し、次のように述べている。
「日光の光と熱は、全ての創傷、殊に解放性骨折、破傷風などに効果がある」
「筋肉の競争を期する人には日光浴が絶対に必要である。しかも春夏秋冬必ずその直射を受けなければならない」
「脂肪性の肥満した人は、できるだけ裸で歩き回るのがよい」

*彼ははじめて病院を作ったが、それは日光に当たるための建物だった。
ヒポクラテスは「病気は神の罰ではない」と唱え、自然科学的な視点にたって、研究を続けた。
B・C 
医師ヘロドトスは、病人が健康を回復する上で、日光療法が果たす有用性を強調し、「日光療法の父」と呼ばれたという。同時代の医師ガレヌスも日光療法の医療効果について論じている。
150 外科医アンチロスは、
「いかなる患者もなるべく日光に当たるようにすべきである。傷は新しい古いに関わらず日光にさらすのが良い」
「動ける患者はもとより、寝たきりか、座ることしか出来ない患者もできるだけ日光に当てなければならない」
「日光浴は内臓の分泌作用が高まり、発汗を増し、筋肉を強くし、脂肪の蓄積を防ぎ、腫瘍を縮小し、浮腫を減ずる」
「また、呼吸は深く活発になるため胸部の狭い人は拡大し、肺臓を強くして肺の病気に効果をもたらす」
500


   
1000
中世の衰退時代
中世はあらゆる分野で科学が衰退した暗黒の時代であった。
医療面でもキリスト教が広まるにつれて自然科学的なことは邪道とされ、治療は薄暗い教会や寺院の中で行われていた。
キリスト教の教義の上から霊が重んじられ肉体を卑しめ、身体を出すことを禁じ、日光浴をすることは病気に対し有害であると信じられていた。
また太陽崇拝は異教徒の行為として排斥され、日光浴すら罪悪視されたが、当時のアラビア王室付き医師アビセンナ(A・D 1000年頃)のように、病気予防に日光浴が有効なことを説いた勇敢な人もいた。
暗黒の中世

日光に当たることを罪悪視した
1000 アラビアの王室医師・アビセンナ

「十分な太陽と空気の前に疾病は起こり得ない」
1300 近世の復興の兆し
14世紀に入り古代文化の復興と人間性の解放を唱えた文芸復興、ルネッサンスが起こり、その動きに呼応して、再び
日光療法が見直される兆しが出てきた。ことに興味深いことは1337年にヨーロッパ全土を席巻したペストの大流行の際に、いまだ細菌も紫外線も知らない人々が、日光消毒を悪疫の蔓延を防ぐ目的で行った事実である。人々は伝承された太陽光線の力を忘れてはいなかった。
ルネッサンス

再び日光療法が見直され出す
 1672  アイザック・ニュートンはプリズムを用いて、光が虹のさまざまな色(可視光スペクトル)からできていることを初めて発見した。  
 1676  オーリー・レーマーによって、初めて光の速度が測定された。  
1680 くる病多発
当時のイギリスで勃発した工業化によって、都市の上空を石炭の煤煙が覆い、工場労働者の子供たちの居住環境から透過力の弱い紫外線が奪われたためである。
公害による大気汚染がくる病を引き起こしたことに気づかなかったため原因不明の奇病として20世紀初頭まで実に250年にわたりなすすべもなく放置された。
紫外線が遮断されたことでクル病が都市部で多発
1777 セーレは塩化銀に日光を当てると紫色になることを発見し、この作用は紫色のスペクトルで最も強いことを証明したが、紫色の外側にも見えない光線があることまでは気づかなかった。
 1800
 世界中の医師が日光の治療特性を十分に知るようになったのは、1800年代に入ってからであった。

この時期には、炎症、麻痺から結核に至る病気に、光による治療が求められた。

そして1870年代にはめざましい躍進の時期となった。
光を治療に利用していた医師たちは、直接日光を用いることも多かったが、色とその多彩な効果にも注目し始めた。
 
1800 ハーシェルの赤外線の発見
イギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェルは、太陽スペクトルの色温度を鋭敏な寒暖計(ポロメーター)を使って測定していた際に、肉眼では見えない赤色の外側で温度が上昇する事実を偶然に発見し、赤外線(Infrared ray)の存在を明らかにした。なお、赤外線を別称「熱線」と呼ぶのは、発見の経緯から名づけられたもの。
赤外線の発見
1801 ドイツの医師リッターやイギリスの物理学者ウォラストンが、セーレが発見した塩化銀の紫変作用を用いて、紫色の外側にも肉眼では見えない紫外線(Ultraviolet ray)のあることを実証した。紫外線の別称として「冷線」とか「科学線」とも言う。 紫外線の発見
1815 コービンは日光療法の適応症として、くる病、壊血病、リウマチ、麻痺、腫脹、水腫、筋力低下を挙げた。同年ロペイルも適応症について論じている。
1816 ドォベライナーは、日光の作用を熱線(赤外線)と、各色線(可視線)とに区別して説明しているが、いまだ紫外線の科学作用に気づいていない。その後、エーベルマイヤー、ヒルシュ、ハイリッヒなどによって、確たる治療効果が着実に積み重ねられた。
 1854  フローレンス・ナイチンゲール
自ら志願したクリミア戦争で夜戦病院に入りきれない屋外の負傷兵の治りが早い事に気づき、負傷兵を屋外に移して治療に好成績を残した。
 ナイチンゲール
1877 光線療法に確たる科学的根拠を与えたのは、イギリスのダウンスとブラントによる、太陽光線の殺菌作用の発見である。次いでストゥレーベルによって殺菌効果の作用波長は「紫外線」であることが明らかにされた。これが契機となって紫外線の作用が注目されることとなり、日光療法は飛躍的な発展を遂げた。
それゆえに、ヒポクラテスを日光療法の始祖と呼ぶのに対し、ダウンスとブラントを「日光療法の父」と呼ぶことがある。
殺菌作用の発見
1880 人工光源の発見
最初の人工光源はエジソンが1880年代に発見した照明用の電球である。この電球が発見された直後から、電球を光源に用いた光線療法が電光浴の名で行われたが、放射エネルギーが低く、紫外線を含まないため、光線療法の光源にはなり得なかった。
1893 ニールズ・フィンゼン
1893年に至り、デンマーク生まれのニールズ・フィンゼンNiesls Finsenは光線療法の光源として、世界で初めて太陽光線と同じスペクトル光線を強力に放射するカーボンアーク灯(フィンゼン灯)を創案した。

このアーク灯で不治の病とされた尋常性狼瘡の治療に成功し、1903年ノーベル医学生理学賞を受賞した。
紫外線を出すアーク灯と尋常性狼瘡
1894 アメリカのケロック

灼熱灯を発明し、発汗作用中心の治療で成果を上げる。
灼熱灯
1985 ドイツの医師 レントゲン

人体深部に進達する短波長の光線を発光する装置を発明。現在でも使われているレントゲン。

彼は特許によって経済的な利益を取らず「科学は万人のために」という信念を貫いた。
レントゲン
1908 日本光線療法小史
日本で人工光源を初めて医療に応用したのは、東大皮膚科、土肥慶造博士。彼はフィンゼン・ライン灯(フィンゼン灯を小型に改良したカーボンアーク灯)を持ち帰り、皮膚科の治療に使った。
ヨーロッパで発達した近代日光療法は、20世紀初頭には日本に輸入され、次第に注目を引くに至った。
日本の導入
1911 バッハ

1911年、紫外線を放射するバッハ灯を発明。大腸菌は5秒から15秒、結核菌は10秒から12秒、コレラ・チフス菌は10秒から15秒で死滅するというデータをまとめる。
紫外線の殺菌力
 1914  東京帝国大学医学部名誉教授・土肥慶蔵博士

バッハ灯を皮膚病の治療に導入。日本全国の病院に普及させる。
 
 1917  アメリカの医師・ヘス
光感受性の弱い黒人の重症クル病患者にタラ肝油を与えクル病に効果があることを報告。
人体に紫外線を照射してビタミンDが出来るのは皮膚であり、口から摂取と違い過剰現象は起こさないことを明らかにする。
 
1918 イギリスの医師 フィンドレー

いくら栄養を与えても日光を浴びなければ重症なクル病にかかることを動物実験で報告。
クル病
1919 ベルリンの小児科医・クリト・ハルトシンスキー
紫外線がクル病を治すメカニズムを発見してクル病の治療に成果を上げる。水銀石英灯(紫外線灯)をクル病の治療に用いる。
紫外線灯
1926 正木不如丘博士

日本初の日光療法専施設を開設。長野県諏訪郡に信州富士見高原療養所を開設して結核の治療に成果を上げる。
結核の治療
 1927  ローゼンハイムとウェブスター
植物中のエルゴステロールは、光でビタミンD2に変化する光化学物質であることを突き止める。
 
1938 ドイツの大学教授 アドルフ・ウィンダウス

皮下脂肪の7・デヒドロコレステロール(ビタミンD前駆物質)に紫外線が当たるとビタミンD3に変わり、強力な抗クル病作用があることを解明しノーベル化学賞を受賞
紫外線の強力な抗クル病作用
1958 イギリスのクレーマー

1958年、日光の当たる窓際のベットにいる新生児重症黄疸の赤ちゃんの症状が軽くなったことに気づき、可視光線にその効果があることを報告。

それが1968年バーモンド大学ジェラルド・ルーシー博士の臨床によって確認された。
新生児重症黄疸
虚弱な子供たちを強壮な身体に

20世紀初頭、ロリエ博士はスイスアルプス山中のオールモン谷のセルニャに小学校を建て、虚弱児童に対して野外教育を行なった。
そこでは天気が良ければ児童たちは携帯用の机と椅子をもって、教師は黒板と机をもって、その日の条件のもっとも良い場所に出向き、小さな帽子をかぶるだけで、ほとんど裸体で日光を浴びながら教育した。

結果、かろうじて運ばれてきたような虚弱体質の児童でも、2,3年もすると見違えるほど強壮になった。
身体の抵抗力は強くなり、知覚、消化吸収、呼吸、循環まどすべての機能が著しく良くなった。
看護婦(看護師)の母ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲールは日光療法で有名である。
1854年クリミア戦争の時に自ら志願したナイチンゲールは戦傷兵が次々と運ばれてくる中、小屋に収容しきれなくなった戦傷兵を外に寝かせておいたところ、屋内の兵士よりも屋外の兵士のほうが早く治ることに気づく。

イギリスに帰国後病室の日当たりを良くして治療効果を上げた。
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